はじめに
建物の老朽化による建て替えや、物件の売却など、貸主(大家)側の事情により、賃借人(借主)が賃貸物件からの立ち退きを求められることがあります。
本稿は、そのような状況に直面した賃借人が、自身の法的な権利を理解し、適切に対応するための一助となることを目的として、借地借家法に基づく法的枠組みと具体的な手続きについて解説します。
賃借人の居住権保護の法的根拠
賃貸借契約において、貸主が物件の所有権を有している一方で、賃借人は契約に基づきその物件を使用収益する権利(賃借権)を有します。
日本の借地借家法は、この賃借人の居住の安定性を確保するため、手厚い保護規定を設けています。
契約の更新原則と解約の制限
普通建物賃貸借契約においては、契約期間が満了しても、当事者から特段の意思表示がなければ契約は原則として同一の条件で更新されます(法定更新)。
貸主側からこの更新を拒絶する、あるいは契約期間の途中で解約を申し入れるためには、法律で定められた厳格な要件を満たす必要があります。
具体的には、貸主は以下の要件を具備しなければなりません。
- 契約期間満了の1年前から6ヶ月前までの所定の期間内に、更新をしない旨の通知を行うこと(借地借家法第26条1項)。
- 上記通知に「正当な事由」が存在すること(借地借家法第28条)。
この「正当事由」の有無が、貸主による立ち退き要求の有効性を判断する上での中核的な論点となります。
「正当事由」の具体的な判断基準
借地借家法第28条は、貸主側の更新拒絶や解約申入れが有効となるための「正当事由」について、その判断基準を定めています。
正当事由の有無は、単一の事実によって決まるのではなく、複数の要素を総合的に考慮して、最終的に裁判所が判断します。
1.正当事由の判断要素
法律は、正当事由の有無を判断するにあたり、主に以下の要素を考慮するとしています。
- ① 建物の貸主及び借主が建物の使用を必要とする事情 これは正当事由の判断における中心的要素です。
- 貸主側の事情: 貸主自身やその親族が他に居住可能な家屋を所有しておらず、当該物件に居住する必要性が高い場合や、事業上の深刻な経営難から当該物件の売却が不可欠であるといった、客観的で切迫した事情は、正当事由を肯定する方向に作用します。
- 借主側の事情: 借主が当該物件を事業所として長年利用し、顧客基盤が地域に定着している場合や、借主が高齢または病気であり、新たな住居の確保が著しく困難である場合、家族の通学・通勤上の必要性が高い場合などは、居住継続の必要性が高いと評価され、正当事由を否定する方向に作用します。
- ② 建物の賃貸借に関する従前の経過 契約締結から現在に至るまでの経緯が考慮されます。権利金や更新料の授受の有無、契約期間の長さ、借主による賃料支払いが遅滞なく誠実に行われてきたか、といった事実が評価の対象となります。
- ③ 建物の利用状況及び現況 建物の物理的な状態が評価されます。特に、建物の老朽化が著しく、現行の耐震基準を満たしておらず、客観的に見て倒壊の危険性があるなど、大規模な修繕や建て替えの必要性が高いと判断される場合は、正当事由を肯定する重要な要素となります。
2.正当事由の補完要素としての「立ち退き料」
上記①~③の要素を比較衡量した結果、貸主側の事情だけでは正当事由が十分とは言えない場合に、その正当事由を補完する要素として考慮されるのが「財産上の給付」、すなわち「立ち退き料(立退料)」の提供です。
立ち退き料は、貸主の正当事由の不足分を補うための金銭であり、借主が立ち退きに伴って被る不利益を填補する役割を持ちます。
したがって、貸主側の事情の必要性が低いほど、それを補うための立ち退き料は高額になる傾向にあります。
立ち退き料の提供が全くない更新拒絶や解約申入れは、他の要素が極めて強い場合を除き、正当事由が認められない可能性が高いと言えます。
立ち退き要求を受けた際の初期対応
貸主側から立ち退きに関する通知を受け取った場合、以下の手順に沿って対応することが望まれます。
STEP1:書面への署名・口頭での安易な同意を留保する
通知受領後、ただちに立ち退きに同意する旨の意思表示(口頭・書面を問わず)をすることは避けるべきです。
一度有効に合意が成立すると、借地借家法による保護が及ばなくなり、合意内容に従う義務が生じます。
管理会社などから合意書への署名を求められた場合でも、「専門家の意見を聞くまで判断できない」として、即答を保留することが賢明です。
STEP2:通知書の内容を確認する
書面で通知を受けた場合は、その内容を正確に把握します。
- 通知日と退去希望日: 法律で定められた通知期間(契約期間満了の1年前から6ヶ月前まで)を満たしているかを確認します。
- 立ち退きの理由: 貸主側が主張する正当事由の根拠(建て替え、自己使用等)を確認します。
- 立ち退き料の有無と金額: 立ち退きの条件として、立ち退き料の提供が記載されているか、その金額はいくらかを確認します。
STEP3:自身の状況と立ち退きに伴う不利益を整理する
交渉や法的手続きに備え、借主側の事情を客観的に整理します。
- 居住継続の必要性: 当該物件に住み続ける具体的な理由(事業上の必要性、家族の通勤・通学、地域の医療・福祉サービスへの依存度など)。
- 移転に伴う経済的損失の試算: 新規物件の契約初期費用(敷金、礼金、仲介手数料等)、引越し業者への支払費用、現在の家賃と新規物件の家賃との差額などを概算します。
STEP4:法律専門家への相談
立ち退き要求への対応は、借地借家法の解釈適用が問題となる専門的な領域です。
早い段階で弁護士に相談し、貸主の主張する正当事由の有効性、立ち退き料の妥当性、今後の交渉方針などについて、法的な助言を得ることが有益です。
立ち退き料の算定根拠
立ち退き料の額は、当事者間の交渉または裁判所の判断によって決定されますが、その算定にあたっては、立ち退きによって借主が被る損失が基礎となります。
1.立ち退き料の算定要素
立ち退き料は、主に以下の要素から構成されます。
- ① 移転費用
- 新規物件の契約初期費用: 借主の責めに帰さない理由による移転であるため、次に同程度の物件を借りるための敷金・礼金・仲介手数料・前払家賃・保証料・火災保険料などが含まれます。
- 引越し費用: 荷造り・運搬・荷解きにかかる実費、什器(エアコンなど)の移設費用が含まれます。
- ② 差額家賃補償 現在の物件の賃料と、同等の立地・面積・設備を備えた新規物件の賃料に差額が生じる場合、その差額の一定期間分(事案により1年~数年分)が補償の対象となることがあります。
- ③ 営業補償(借主が事業用として利用している場合)
- 休業補償: 移転作業に伴い、営業を休止せざるを得ない期間の逸失利益。
- 営業上の損失: 移転により既存顧客を喪失することによる将来の減収分。
- 移転広告費: 新店舗の周知に必要な広告宣伝費。
- 造作買取請求権に代わる補償: 貸主の同意を得て設置した造作(内部設備等)がある場合、借主は本来、貸主に対して時価での買取を請求できますが、立ち退き料の中でこれに代わる補償がなされることがあります。
- ④ 借家権の価格 借家権(その物件を借り続ける権利)の財産的価値を評価したもので、立ち退き料の算定において考慮されることがあります。
- ⑤ その他 移転に伴う時間的・精神的負担に対する慰謝料的要素が加味されることもあります。
2.立ち退き料の金額水準
立ち退き料には法的に定められた一律の算定式はなく、前述の正当事由の程度に応じて、個別具体的に判断されます。
貸主の正当事由が弱いほど、借主の居住継続の利益が重視され、立ち退き料は高額になる傾向があります。
一般的に、居住用物件では「家賃の6ヶ月分」が一つの基準として言及されることがありますが、これは法的な根拠に乏しく、あくまで交渉の出発点に過ぎません。
事案によっては、家賃の数年分に相当する立ち退き料が認められるケースもあります。
問題解決に向けた法的手続き
当事者間の協議で解決しない場合、法的な紛争解決手続きに移行します。
STEP1:任意交渉
弁護士などの代理人を通じて、貸主側と立ち退きの可否および条件(立ち退き料の額、明渡しの時期など)について交渉を行います。
訴訟等の手続きには双方にとって相応の時間と費用を要するため、多くの事案はこの交渉段階での和解を目指すことになります。
STEP2:民事調停
交渉が不調に終わった場合、簡易裁判所に民事調停を申し立てることができます。
調停は、裁判官と調停委員で構成される調停委員会が中立的な立場で双方の主張を聞き、話し合いによる解決を斡旋する手続きです。
STEP3:訴訟
調停でも合意に至らない場合、最終的な解決は訴訟に委ねられます。
通常は、貸主側が原告となり、借主を被告として「建物明渡請求訴訟」を提起します。
法廷では、当事者双方が正当事由の有無や立ち退き料の額について主張・立証を行い、最終的に裁判官が判決を下します。
この種の訴訟では、裁判所が一定額の立ち退き料の支払いと引き換えに建物の明渡しを命じる「引換給付判決」を下すことが実務上多く見られます。
訴訟では、正当事由の判断のために鑑定人が選任され、鑑定人による鑑定が行われることもあります。
その場合、立退料の金額を含む正当事由の判断について、鑑定人の提出する鑑定評価報告書の内容が大きな影響力を持つこととなります。
結論
賃貸物件の貸主から立ち退き要求を受けた場合でも、借主は借地借家法によって強く保護されており、一方的に退去を強制されることはありません。
貸主の要求が法的に有効と認められるには「正当事由」の存在が不可欠であり、その判断は、立ち退き料の提供を含めた様々な事情を総合的に考慮して、慎重に行われます。
立ち退きの通知を受けた際は、まず安易に同意せず、ご自身の法的な権利と状況を正確に把握することが重要です。
その上で、貸主側との間で、立ち退きの条件について冷静に交渉を進める必要があります。
これらのプロセスには専門的な知識が求められるため、弁護士等の専門家に相談し、適切な助言を得ながら対応を進めることが望ましいでしょう。
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