はじめに
賃貸アパートやマンション、あるいは店舗やオフィスを借りて生活・営業していたところ、突然大家(賃貸人)側から「建物を建て替えたいので、〇月までに退去してほしい」と告げられる。
そして、その際に提示された「立ち退き料」の金額を見て、「あまりに安すぎるのではないか」「これでは引っ越し費用すら賄えない」と不安や不満を抱くケースは後を絶ちません。
立ち退きを求められた借主にとって、立ち退き料は次の生活や事業の基盤を確保するための重要な資金です。
しかし、立ち退き料には法律で定められた明確な計算式や定価が存在しないため、大家側から提示される金額は、往々にして低額に抑えられているのが実情です。
では、適正な立ち退き料とは一体いくらなのでしょうか。
そして、提示された金額に納得できない場合、どのように交渉すれば増額が可能なのでしょうか。
本稿では、立ち退き料の法的な意味合い(正当事由との関係)を解説した上で、実務上の相場の考え方、具体的な計算方法、そして増額交渉において有利に働く材料について、解説いたします。
そもそも「立ち退き料」とは何か?法的な位置づけ
金額の交渉をする前に、なぜ立ち退き料が発生するのか、その法的根拠を理解しておくことが重要です。
これは単なる「大家からの見舞金」や「迷惑料」ではありません。
1-1. 「借地借家法」と「正当事由」
日本の法律(借地借家法)は、借主(入居者)の権利を非常に強く守っています。
一度契約した以上、大家側が契約を更新せず、解約を申し入れるためには、単に「契約期間が満了したから」「自分の所有物だから」という理由だけでは認められません。
法的に解約が認められるためには、「正当事由」が必要となります。
1-2. 正当事由の判断基準
正当事由があるかどうかは、以下の要素を総合的に考慮して判断されます。
- 大家側の事情: 自分が住む必要がある、建物の老朽化で倒壊の危険がある、再開発の必要があるなど。
- 借主側の事情: そこで生活する必要性、店舗営業の必要性、移転の困難さなど。
- 建物の利用状況: 賃料の滞納がないか、用法違反がないかなど。
1-3. 立ち退き料は「正当事由の不足分」を埋めるもの
ここが最大のポイントです。
大家側の「建て替えたい」という事情だけでは、借主を追い出すほどの「正当事由」とは言えないことがほとんどです。
そこで、「足りない正当事由を補完するために、金銭(立ち退き料)を支払うことで、解約を認めさせる」という考え方が取られます(借地借家法第28条)。
つまり、立ち退き料とは、「本来退去しなくて良い権利を持っている借主に対して、その権利を譲ってもらうための対価」としての性質を持つのです。
したがって、借主は不当に安い金額で安易に合意する必要はありません。
立ち退き料に「相場」はあるのか?
「相場は家賃の〇ヶ月分」といった情報をよく目にしますが、これらはあくまで目安に過ぎず、法的な拘束力はありません。
事案ごとの個別事情によって金額は大きく変動します。
2-1. 一般的な目安(住居用の場合)
住居用賃貸物件(アパート・マンション)の場合、実務上の解決事例を見ると、賃料の6ヶ月分~10ヶ月分程度で合意に至るケースが比較的多いと言えます。
しかし、これはあくまで平均的な目安であり、入居者の年齢や家族構成、転居の難易度によっては、これを超える金額になることも珍しくありません。
2-2. 店舗・事務所の場合
事業用物件の場合、単なる引っ越し費用だけでなく、移転による「営業補償」が絡むため、金額は跳ね上がります。
数百万円から、場合によっては数千万円単位になることもあり、住居用のような「家賃の〇ヶ月分」という単純な指標は当てはまりません。
立ち退き料の具体的な計算方法と内訳
適正な立ち退き料を算出するためには、以下の項目を積み上げて計算します。
増額交渉を行う際は、「何にいくらかかるから、この金額が必要だ」と具体的に主張する必要があります。
3-1. 移転実費(引っ越しに関連する費用)
実際に動くために必要となる費用です。
ほぼ全額が認められる傾向にあります。
- 引っ越し代: 引っ越し業者への支払費用。
- 新居の契約費用: 仲介手数料、礼金、敷金(返還されない部分)、保証会社利用料、鍵交換費用など。
- 移転通知費用: 住所変更の挨拶状作成・送付費用。
- インターネット・電話移転工事費
3-2. 借家権価格
現在の家賃が、近隣の相場よりも安く借りられている場合、その「安く住める権利(借家権)」自体に価値があるとみなされます。
- 差額家賃の補償: (新居の家賃 - 現在の家賃)× 一定期間(通常2年~3年分)。例えば、現在8万円で住んでいるが、同等の条件の新居を探すと10万円かかる場合、月2万円の差額が生じます。この差額の2年分(48万円)などを請求します。
3-3. 営業補償(※事業用物件の場合)
店舗や事務所の場合、移転のために休業せざるを得ない期間の利益や、場所を変えることによる客離れ(減収)に対する補償です。
- 休業補償: 移転作業期間中の逸失利益(確定申告書や決算書等を根拠に算出)。
- 得意先喪失補償: 場所が変わることで常連客が減るリスクに対する補償。
3-4. 造作買取請求権・内装移転費用
店舗の内装や設備(造作)について、大家に買い取りを求めたり、新しい店舗に適合させるための工事費用を求めたりします。
3-5. 慰謝料・迷惑料
長年住み慣れた土地を離れる精神的苦痛や、新生活への不安に対する補償です。
これは算定が難しい部分ですが、交渉における調整金としての役割も果たします。
立ち退き料を「増額」させるための交渉材料
大家側から提示された金額が、上記の「実費」すらカバーしていない場合や、納得がいかない場合、増額交渉を行います。
その際、有利に働く具体的な材料(事情)には以下のようなものがあります。
4-1. 大家側の事情(正当事由の弱さ)
大家の都合が大家自身のためであればあるほど、立ち退き料は高くなります。
- 営利目的の建て替え: 「マンションにして家賃収入を増やしたい」「土地を売却して利益を得たい」といった経済的理由の場合、正当事由としては弱いため、高額な立ち退き料が必要となります。
- 建物の老朽化が軽微: 「古いから」と言われても、耐震診断の結果などで「直ちに倒壊する危険性はない」と判断される場合、退去を強制する理由は弱くなります。
4-2. 借主側の事情(退去の困難さ)
借主側に「そこを離れると生活・営業が成り立たない」という事情があるほど、保護の必要性が高く、立ち退き料は増額されます。
- 高齢者・要介護者: 高齢で新たな入居先を見つけるのが困難、近隣の介護サービスや病院との連携が必要である場合。
- 学区の問題: 子供の学校を変えたくない、受験を控えているなどの事情。
- 地域密着型の店舗: 「この場所」にあることに価値があり、移転すると顧客基盤が失われる場合。
4-3. 立ち退き期限の短さ
「来月出ていってくれ」といった急な要求の場合、物件探しの選択肢が狭まるため、その分の迷惑料として増額を主張できます。
提示額に納得できない場合の対処法
大家や管理会社、あるいは大家側の弁護士から立ち退きを迫られた際、どのように対応すべきでしょうか。
5-1. 合意書にはサインしない
最も重要なことは、納得していない段階で「退去します」という合意書や念書にサインをしないことです。
一度サインをしてしまうと、「条件に合意した」とみなされ、後から覆すことが極めて困難になります。
「とりあえずサインだけ」「ハンコを押さないと話が進まない」などと急かされても、毅然と断ってください。
5-2. 交渉の記録を残す
言った言わないのトラブルを防ぐため、やり取りは可能な限りメールや書面で行うか、録音を残しておきます。
5-3. 弁護士に交渉を依頼する
大家側が強硬な態度に出たり、「これ以上は出さない」「法的措置を取る」と脅しめいたことを言ってきたりする場合、個人での交渉には限界があります。
弁護士に依頼することで、以下のメリットが得られます。
- 適正額の算出: 法的根拠に基づいた、最大限の請求額を算出します。
- 精神的負担の軽減: 弁護士が窓口となるため、大家側との直接のやり取りが不要になります。
- 訴訟リスクへの対応: 万が一裁判になっても、正当事由の有無(退去の必要性)から徹底的に争うことができます。
おわりに
立ち退き料は、大家側の「言い値」で決まるものではありません。
法律は、正当な理由なく住居や営業場所を奪われないよう、借主の権利を手厚く保護しています。
立ち退き料とは、その権利を手放すことへの正当な対価です。
提示された金額が、引っ越し費用や今後の生活補償として不十分であると感じるならば、安易に妥協すべきではありません。
「なぜその金額なのか」「こちらの実損はこれだけある」という根拠を持って交渉すれば、大幅な増額も十分に可能です。
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