はじめに
佐賀県警の科捜研の職員が、未実施のDNA鑑定を実施したかのように装ってうその報告をしていたとして、証拠隠滅などの疑いで書類送検され、懲戒免職となったというニュースがありました(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250908/k10014916091000.html)。
この事件、刑事弁護をしたことのある弁護士からするとかなりショックな事件です。
どういうことなのかについて、刑事事件におけるDNA鑑定の流れや裁判での使われ方なども含めて以下で解説します。
DNA鑑定の流れ
1.現場での証拠資料の収集
刑事事件の捜査の過程で、捜査員は、事件現場に犯人が残した、あるいは触れた可能性のあるあらゆる物から犯人のものと思われるDNA(現場資料)がないかを慎重に確認し、収集します。
この際、捜査員自身のDNAなどが付着して証拠が汚染(コンタミネーション)されるのを防ぐため、手袋やマスクを着用し、細心の注意を払って作業が行われます。
2.被疑者・関係者からの試料採取(対照試料の入手)
現場から犯人のものと思われるDNA(現場資料)が採取できた場合、次にそれを比較するための対照試料が必要になります。
対照試料は、主に捜査線上に浮かんだ被疑者から採取されます。
・任意での採取
最も一般的なのは、被疑者の同意を得て、口の中(頬の内側)を綿棒でこすって口腔上皮細胞を採取する方法です。
これは被疑者の身体的負担がほとんどなく、DNA鑑定に必要な良質な細胞を確実に得られるため、広く用いられています。
・強制的な採取:
被疑者が任意での試料提出を拒否した場合、捜査機関は裁判官が発付する「鑑定処分許可状」に基づいて、強制的に試料を採取することができます。
この場合、身体から毛髪を抜いたり、強制的に口を開けさせて唾液を採取したりといった手段が取られます。
これは、個人の身体の自由という重要な権利を制約するため、厳格な法的要件のもとでのみ許可されます。
3.科学捜査研究所(科捜研)での分析
現場資料と対照試料は、各都道府県警察の科学捜査研究所(科捜研)や、警察庁の科学警察研究所(科警研)に送られ、専門の鑑定官によって分析されます。
DNAの抽出: 試料(血液や唾液など)から、化学的な処理によってDNAだけを純粋に取り出します。
PCR法による増幅: 抽出されたDNAは非常に微量なことが多いため、PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法という技術を用いて、鑑定に必要なSTR領域だけを数百万~数十億倍に増幅(コピー)します。
電気泳動とDNA型の解析: 増幅されたDNA断片を、DNAシークエンサーなどの専用の分析装置にかけます。
DNA断片は、その長さ(=STRの繰り返し回数)によって装置内を移動する速度が異なるため、これを検出することで、各STR領域の繰り返し回数を正確に読み取ります。
DNA型の決定: 読み取った数十か所のSTR領域の繰り返し回数のパターンを、数値やグラフのデータとしてまとめ、個人の「DNA型」を決定します。
4.DNA型の比較・照合と鑑定書の作成
最終的に、現場資料から得られたDNA型と、被疑者の対照試料から得られたDNA型を比較します。両者が一致すれば、「現場に残されたDNAは被疑者のものである」という結論が得られます。
また、被疑者が特定できていない事件では、現場資料のDNA型を警察が管理する「DNA型記録データベース」に照会します。これにより、過去に別の事件で逮捕された人物や、別の事件の現場に残されたDNA型と一致しないかを調べ、犯人を割り出すことも可能です。
これらの全プロセスと結論は、「鑑定書」という公式な文書にまとめられ、捜査機関に報告されます。
裁判におけるDNA鑑定の証拠価値
鑑定書は、検察官によって裁判に証拠として提出され、有罪を立証するための極めて重要な柱となります。
1.DNA鑑定の絶大な証明力
他人のDNA型と偶然一致する確率は、統計上ほぼゼロです。
そのため、裁判において「現場のDNA=被告人のDNA」という事実を結びつける証明力は絶大です。
裁判員や裁判官に対しても、「科学的で客観的な証拠」として、非常に強い心証を与えることは間違いありません。
2.DNA鑑定に対する弁護側の反論
しかし、「現場のDNAが被告人のものと一致した」という事実が、直ちに「被告人が犯人である」という結論を意味するわけではありません。
弁護人は、「現場のDNAが被告人のものと一致した」という事実に対して、法的な観点から様々な反論を展開します。
DNAが付着した経緯の合理的な説明
これが最も重要な反論です。
弁護人は、被告人が犯罪行為とは無関係に、その場所にDNAを残した可能性を主張します。
(例)「凶器のナイフから被告人のDNAが出たが、それは事件の数日前に被告人が料理で使ったものであり、真犯人がそれを盗んで犯行に及んだ可能性がある」
(例)「被害者の着衣から被告人のDNAが出たが、二人は知人であり、事件前に会った際に偶然付着したものである」
証拠収集・鑑定過程における汚染(コンタミネーション)の可能性
現場での証拠収集時や、科捜研での分析時に、捜査員や他の事件の試料が混入し、誤った結果が出たのではないかと主張します。
二次付着・三次付着の可能性:
犯人が被告人と接触し、その際に被告人のDNAが犯人の衣服に付着し、さらにその犯人が現場で行動した結果、被告人のDNAが現場に残された、というような間接的な付着の可能性を主張します。
鑑定手法や解釈の誤りの指摘
複数の人物のDNAが混ざった試料(混合試料)の鑑定結果について、その解釈が検察官に有利なように偏っているのではないか、といった専門的な観点から鑑定の信用性を争います。
このように、弁護側は、鑑定結果そのものを否定するのではなく、「DNAの存在」と「犯罪の実行」との間の関連性を断ち切るため、証拠収集や、関係者の尋問などの弁護活動を行います。
DNA鑑定の結果の誤りについて(足利事件)
先述したように、DNA鑑定の結果が証拠として出された場合、弁護人としてまず考えるのは、「DNAの存在」と「犯罪の実行」との間の関連性を断ち切ることができないかという方向での弁護活動です。
それぐらい、刑事裁判では、DNA鑑定の信用性は高いです。
しかし、DNA鑑定の結果が必ずしも誤りがないわけではありません、
DNA鑑定の結果に誤りがあった事件として有名な足利事件というものがあります。
この事件は、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から父親がパチンコをしていたところ当時4歳の女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件です。
警察が現場付近をさらに捜索したところ、遺体発見現場近くの川底から、被害女児のスカート、精液が付着した半袖下着、2枚重ねのパンツが発見されました。
その後の捜査で、警察は、事件当時、市内の借家に週末だけ1人で住んでいた菅家利和さんを不審者の一人と特定し、菅家さんが捨てたゴミから微物を採取して、被害女児の半袖下着とともに科学警察研究所(科警研)に送り、両者のDNA型の異同について鑑定を依頼しました。
すると科警研は、両者のDNA型が同型であるとの鑑定結果を出しました。
第一審の宇都宮地方裁判所は、1993年7月7日、捜査段階で行われた科警研のDNA型鑑定結果の信用性を認め、自白も信用できるとして、菅家さんに無期懲役の判決を言い渡しました。
その後、控訴、上告をしたものの、本事件は、最高裁判所第二小法廷が2000年7月17日に上告を棄却したことで、無期懲役刑が確定しました。
本事件の問題点は、事件発生当時、まだ科学鑑定として確立していたとは言い難いDNA型鑑定が用いられ、その結果が、犯人識別の重要な根拠とされたことでした。
そこで、判決確定後、弁護人が法医学者に再度鑑定したもらったところ、科警研のDNA型鑑定が間違っている可能性が高まりました。
菅家さんは、宇都宮地方裁判所に裁判のやり直しを求めて再審を申し立てました。
弁護団は「当時の科警研の鑑定結果は間違っている。最新のDNA型鑑定を行えば科警研の鑑定結果は覆る」と主張し、強く再鑑定を求めました。
しかし、宇都宮地方裁判所はDNA型再鑑定を行わず、再審請求を棄却しました。
これに対し、抗告審である東京高等裁判所は再鑑定を行うことを決め、検察側推薦の法医学者と弁護側推薦の法医学者が、それぞれ犯人由来の精液が付着した半袖下着を改めて鑑定することになりました。
その結果、いずれも、菅家さんのDNA型と半袖下着に付着した犯人由来のDNA型は、「同一人に由来しない」という鑑定結果が出ました1。
今回の事件について
足利事件は、DNA鑑定の結果について、盲目的に信用すべきではないという教訓となりました。
とはいえ、現在ではDNA鑑定の精度も上がっており(足利事件の解決も、実質的には技術の発展に起因するところも大きい)、裁判実務ではDNA鑑定の結果そのものを覆すことは非常に困難です。
そのような状況において、今回の事件は非常にインパクトのあるものでした。
記事によると、2017年6月から去年10月までのおよそ7年間にこの職員が担当したDNA鑑定について、
・未実施の鑑定を実施したかのように装ってうその報告をしたほか
・鑑定に必要な資料を紛失したにもかかわらず、別の資料を使って偽造した
などとして、あわせて130件の不適切な対応が確認されたとのことです。
これは、「DNA鑑定による鑑定結果は信用に足るものだ」という大前提を覆してしまうものです。
多くの事件において、科捜研が作成した鑑定書の証明力(信用性)は非常に高いです。
私自身は、DNA鑑定の結果について争ったことはなく、覚醒剤事案における尿の鑑定について争ったことがあるだけですが、それでも、「科捜研の鑑定結果は信用できない」という主張は、裁判所に一蹴されました。
おそらく、刑事裁判で科捜研の出してくる鑑定結果について争った弁護士の誰もがそのような経験があると思います。
この職員は、調べに対し「仕事ぶりをよく見せるためだった。仕事が遅いと思われたくなかった」と述べているようです。
この発言が本当なのかどうか、本当だとして、正直に動機を述べているのかはまだわかりませんが、仮に本当だとした場合、このような軽い理由で虚偽の報告をするようになってしまうわけです。
今回は佐賀県警の科捜研で起きた事件のようですが、日本中のどこでもこのようなことは起こり得ます。
佐賀県警本部は、「これまでの調査を踏まえ、裁判への影響はない」という認識を示したようですが、どのような調査を行ったのか、その上で、どのような調査結果から裁判への影響がないと判断したのかが不明です。
というか、130件も不適切な対応があったのであれば、冤罪は1件や2件じゃ済まないのではないかとも考えられます。
今後は、どのような事案であっても、鑑定書が証拠として提出されるようであれば、鑑定結果そのものについても争うという選択肢をもって刑事弁護に臨む必要がありそうです。
※追記
佐賀県の弁護士会が、本件に関して、2025年9月10日付で会長声明を出していました(https://www.sagaben.or.jp/information/5162/)。
内容としては、不正行為の詳細と調査結果を開示し、第三者による調査を求めるというもので、私自身としてもそのとおりだと考えるものです。