はじめに
合意の上での性交渉の結果、意図しない妊娠に至り、人工妊娠中絶を選択するという事態は、当事者、特に女性側に大きな身体的・精神的負担を強いるものです。
このような場合に、女性が相手方男性に対し、中絶によって受けた損害の賠償を法的に請求することは可能なのでしょうか。
本稿では、この極めてデリケートな問題について、損害賠償請求の法的根拠、請求できる費用の範囲、賠償額を左右する具体的な事情、そして実際に請求を行う際の手続きの流れについて、解説します。
※本稿はあくまでも性交渉については同意があるという前提で記載されています。性交渉そのものにも同意がない場合については、また別の機会に解説いたします。
損害賠償請求の法的根拠
妊娠・中絶を理由とする損害賠償請求は、主に民法第709条に定められる「不法行為」を根拠として構成されます。
民法第709条(不法行為による損害賠償) 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
この条文を適用するにあたり、中核となる法的な論点は「相手方男性のどのような行為が、女性のどのような権利または利益を侵害したのか」という点です。
1.侵害された権利:「自己決定権」
まず、大前提として、(避妊しないことについても)双方合意の上で避妊せずに性交渉をした結果妊娠した場合、不法行為の成立が認められることは稀です。
裁判例において、この種の事案で侵害されたと認められるのは、女性が持つ「自己決定権」です。
具体的には、「妊娠・出産するか否かを自らの意思で決定し、他者からその意思決定を妨げられない権利」と言い換えることができます。
女性にとって、妊娠、出産、そして中絶は、その後の人生を大きく左右する極めて重大な選択です。
中絶手術は、身体に直接的な侵襲を伴うだけでなく、精神的にも大きな負担となり得ます。
男性側の避妊への非協力や、避妊に関する欺罔(ぎもう・だますこと)などによって、女性が意図せずして妊娠し、望まない中絶手術を受けざるを得ない状況に追い込まれた場合、それは女性の自己決定権を侵害する違法な行為(不法行為)である、というのが裁判所の基本的な考え方です。
2.「性交渉への同意」と「妊娠への同意」の区別
ここで重要なのは、「性交渉への同意」が、直ちに「妊娠の可能性を受け入れることへの同意」を意味するわけではないという点です。
たとえ合意の上での性交渉であったとしても、男性が避妊に協力しなかったり、避妊について虚偽の説明をしたりした結果として妊娠に至った場合、それは女性が自己の身体や人生についてコントロールする機会を奪ったものと評価されます。
したがって、性交渉自体に同意があったという事実だけをもって、男性が損害賠償責任を免れることはできません。
3.女性の不利益を軽減しあるいは解消するための行為を行うべき義務
繰り返しになりますが、「妊娠の可能性を受け入れることへの同意」もあった場合、妊娠したことそのものに対しては、不法行為は成立しません。
しかし、妊娠というのは、その後の出産又は中絶及びそれらの決断の点を含め、女性に対して多大な精神的・身体的な苦痛や負担を与えるものです。
そのため裁判例は、男性に対して、妊娠後の心身の負担等を軽減しあるいは解消するための行為を行うべき義務があると判断しています(東京地判平成21年5月27日)。
なお、同裁判例は、義務の履行も共同ですべきものであることから、賠償すべき金額は損害の2分の1であるとしています。
損害賠償として請求が認められる費用の範囲
不法行為に基づく損害賠償は、侵害行為によって生じた損害を金銭的に填補することを目的とします。
請求が認められる損害は、主に「財産的損害」と「精神的損害」の2つに大別されます。
1.財産的損害
財産的損害とは、不法行為がなければ支出する必要がなかった、具体的な金銭的損失を指します。
- ① 中絶手術関連費用 人工妊娠中絶手術にかかった費用、手術前の診察費、術後の検診費など、中絶に関わる一切の医療費実費が対象となります。これらの費用を請求するためには、医療機関が発行した領収書が客観的な証拠として必要です。
- ② 通院交通費 手術や診察のために医療機関へ通院した際の交通費(公共交通機関の料金、タクシー代、自家用車のガソリン代など)も、損害として認められます。
- ③ 休業損害 中絶手術およびその後の療養のために仕事を休まざるを得ず、その結果収入が減少した場合、その減収分を「休業損害」として請求できる可能性があります。給与所得者の場合は、勤務先に休業損害証明書を発行してもらうか、直近の給与明細などを基に、休んだ日数分の損害額を算出します。
2.精神的損害(慰謝料)
精神的損害とは、不法行為によって受けた精神的苦痛を金銭に換算したもので、一般的に「慰謝料」と呼ばれます。
意図しない妊娠と中絶は、女性に多大な精神的ショックを与えます。
妊娠による身体的変化、中絶手術への恐怖や不安、手術に伴う痛み、そして自らの意思に反して妊娠・中絶という重大な決断を迫られたこと自体の苦痛など、これら無形の損害に対して慰謝料が認められます。
損害賠償請求においては、この慰謝料が賠償額の中心的な要素となります。
賠償額を左右する具体的な事情(増減額要素)
慰謝料の額に法的な定価はなく、個別の事案ごとに、裁判官が様々な事情を総合的に考慮して、その裁量で金額を決定します。
以下に、賠償額(特に慰謝料)を増額させる事情と、減額させる事情の代表例を挙げます。
1.慰謝料の増額事由(男性側の責任が重くなるケース)
以下のような事情が存在する場合、男性側の行為の悪質性が高いと評価され、慰謝料は増額される傾向にあります。
- 避妊に関する欺罔・不誠実な対応:
- 「自分は不妊手術をしているから大丈夫」などと、虚偽の事実を告げて避妊しなかった場合。
- 「外で出すから」と言いながら性交渉中に避妊をしなかった場合。
- コンドームの装着を拒否するなど、女性からの避妊の求めに協力しなかった場合。
- 妊娠発覚後の不誠実な対応:
- 妊娠の事実を告げた途端、連絡が取れなくなる、あるいは無視するようになった場合。
- 父親であることを頑なに否定し、責任を認めない場合。
- 女性を一方的に非難・詰問するなど、精神的に追い詰める言動があった場合。
- 中絶を強く強要・強圧した場合。
- 中絶手術前後の非協力的な態度:
- 手術費用の分担を一切拒否した場合。
- 女性の心身の状態を気遣うことなく、精神的な支えにならなかった場合。
- 既婚男性との不貞関係の末の妊娠であった場合(不貞行為そのものに対する慰謝料が別途発生する)。
2.慰謝料の金額水準
上記の増減額事由を総合的に考慮した上で、最終的な慰謝料額が決定されます。
過去の裁判例を参照すると、慰謝料額は数十万円から100万円を超える程度の範囲内に収まることが多いですが、これはあくまで一般的な目安です。
男性側の行為の悪質性が極めて高い事案などでは、これを上回る金額が認定される可能性もあります。
第4章:請求のための具体的な手続きと流れ
損害賠償を請求する場合、まずは当事者間の交渉から始め、それがまとまらなければ裁判手続きに移行するのが一般的です。
STEP1:証拠の確保
請求を法的に根拠づけるためには、客観的な証拠が不可欠です。
感情的な水掛け論に陥ることを避け、交渉や裁判を有利に進めるため、以下の証拠を可能な限り収集・保全します。
- 妊娠および中絶の事実を証明する証拠:
- 医療機関が発行する診断書(妊娠の事実、週数、中絶手術の実施日など)
- 手術費用や診察費の領収書
- 母子手帳(交付を受けていた場合)
- 相手方男性との関係性および性交渉の事実を示す証拠:
- 交際の事実が分かるメール、LINEなどのメッセージのやり取り
- 二人で写っている写真など
- 男性側の不誠実な言動を示す証拠:
- 避妊に非協力的であったことが分かるメッセージのやり取り
- 妊娠発覚後の責任逃れや、中絶を強要するような発言が記録されたメッセージ、音声データなど
- 財産的損害を証明する証拠:
- 医療費の領収書、通院交通費の記録
- 休業損害を証明するための給与明細、勤務先の証明書など
STEP2:示談交渉
証拠が整理できたら、弁護士などの専門家に依頼し、相手方男性に対して内容証明郵便で損害賠償を請求する通知書を送付します。
内容証明郵便は、誰が、いつ、どのような内容の文書を送ったかを郵便局が証明してくれるため、請求の意思を明確に伝え、「受け取っていない」といった言い逃れを防ぐ効果があります。
請求書送付後は、当事者間(または代理人弁護士間)で、賠償額や支払方法について具体的な話し合い(示談交渉)を行います。
この交渉で双方が合意に至った場合は、必ず示談書(合意書)を作成し、合意内容(賠償金額、支払期日、清算条項など)を文書で明確に残します。
STEP3:裁判手続き(民事訴訟)
示談交渉がまとまらない場合や、相手が交渉に一切応じない場合は、「損害賠償請求訴訟」を提起します。
訴訟では、原告(女性側)が、不法行為の成立要件や損害額について、証拠に基づいて主張・立証を行い、被告(男性側)がそれに反論します。
最終的には、裁判官が双方の主張を審理し、判決という形で法的な判断を下します。
また、裁判中に和解によって解決することもあります。
消滅時効
不法行為に基づく損害賠償請求権には、「損害及び加害者を知った時から3年間」という消滅時効期間が定められています。
事案によってどの時点を消滅時効の起算点(時効期間のカウントが始まる時点)とするかは難しい問題ですが、注意が必要です。
結論
意図しない妊娠とそれに続く中絶は、女性に多大な負担を強いる出来事であり、その原因を作った相手方男性に対して損害賠償を請求することは、法的に認められた正当な権利です。
もっとも、その請求が認められるか、また、どの程度の金額が認められるかは、避妊に関する当事者間のやり取りや、妊娠発覚後の相手方の対応といった、個別具体的な事情に大きく左右されます。
この種の問題は、法的な論点だけでなく、感情的な対立も絡むため、当事者だけでの解決は困難な場合が少なくありません。
ご自身の権利を適切に実現するためには、客観的な証拠を確保した上で、法的な根拠に基づき冷静に交渉を進めることが不可欠です。
関連する証拠の収集方法や、具体的な請求手続きについて不明な点がある場合は、弁護士などの法律専門家に相談することをお勧めします。
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